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2005年05月24日
ミソギニスト、永遠にピンボールのフリッパーを動かし続ける
高校生の頃のはなし。
ふとしたことをきっかけに、ぼくはある同級生の子と仲良くなった。
彼女はとても大人しい子で、そのことがなければそのまま一度も話すことなんかなかったかもしれない。
もちろん名前は知っていた。クラスメイトだもの。
とても透き通ったオーラを持っていた彼女の存在は、いつもどことなく儚げで、急に消えてなくなってしまいそうな危なっかしさがあったのを覚えている。
それは凡庸な言い方かもしれない。
だけども他にもっとうまい表現が見つからない。
とにかくぼくらは親密になった。
仲良くなったすぐ後、彼女はぼくに手紙をくれた。
その中の一文を、ぼくは今でもときどき思い出す。
「あなたはミソギニストではないかと思っていました」
ミソギニスト? おいらが?
なぜ彼女がそんな風にぼくのことを捉えていたのか、その時には良くわからなかった。
ミソギニー、あるいはミソジニーについては、ぼくも彼女も授業でこう習った。
フェミニスト曰く、「ミソジニー(女性嫌悪)は、人類史と共に始まるが、フェミニズムはその〈現前化されない事実〉を主題として前景に押し出した」と。
で、その押し出された風景にぼくは佇んでいたわけだ。
キリスト教徒(とくにプロテスタント)やアメリカ人なら、文化的にミソギニーが身体化されるのは必然かもしれないけど、その地平から離れて暮らしているぼくにはその理由が良くわからなかった。
でも今では、なんとなくわかるような気がする。
ぼくはたぶんミソギニストなんだろうなって。
そして意識しているにせよしていないにせよ、キリスト教徒やアメリカ人じゃなくても、多くの男たちが同じようにミソギニストであるということも。
村上春樹の『1973年のピンボール』には、孤独と喪失が対位法におけるアリアのように何度も交差しながら奏でられている。
その中で通奏低音として静かに流れているのが、このミソギニーであるという気がしてならない。
「誰とも分かりあえない」というテーゼに立って生きる主人公の<僕>の哀しみは、そのまんまぼくの哀しみでもあるからだ。
『1973年のピンボール』は、村上作品の中でも3本の指に入る傑作である。
どうしてこの小品が優れているのか、ミソギニーという視点を見つけて、新たな発見へと結びついた。
投稿者 coboratory : 2005年05月24日 13:55