海辺のカフカ ~ 心に猫を抱いた少年
ある日突然、圧倒的な暴力によって人生をめちゃくちゃにされてしまうことを想像してみる。身近なところでは阪神大震災や地下鉄サリン事件のようなものがあげられるかもしれない。
もっと身近なところでは、交通事故によって四肢が不自由になったり、近親者が殺人事件に巻き込まれるようなことが思いつくかもしれない。いずれにせよ、それまでの人生が根こそぎ奪われてしまうような圧倒的な暴力だ。
村上春樹の最新作『海辺のカフカ』は、そのような暴力とそれによって人生を損なわれてしまった者たちについての物語。主人公は15歳の少年、田村カフカ。15歳の誕生日前夜、二度と家に戻らない決意で四国・高松に向かって旅に出る。
彼は幼少期に母親と姉に捨てられてしまったトラウマを心に抱きながら成長してきた。同時に父親から少年は、「父を殺し母や姉と交わる」というオイディプス的な予言を聞かされ、その運命から逃れるためにも家出をする。
生き延びること、それがカフカ少年のたった一つの旅の目的だった。カフカ少年が高松で過ごすのは、雑誌『太陽』で見つけた私立「甲村記念図書館」。図書館の責任者である佐伯さんは、恋人を全共闘の内ゲバ騒動で殺され、その後は抜け殻のようにひっそりと生きてきた女性。同じく図書館で働く大島さんは、血友病で性同一性障害のゲイの女性だ。主人公を取り巻く人たちはみな、暴力的な社会システムから阻害されている。
同時に物語はもう一つの基軸からも描かれる。先の大戦中、学童疎開で山梨にいた時に遭遇した児童集団失神事件の影響で、それまでの記憶を失ってしまった初老の男性、ナカタさんの旅だ。ナカタさんは事件後に読み書き能力を奪われてしまい、まともな人間として扱われないまま生きてきた。木工所で長い間働いていたが、工場が閉鎖になると、その後の職もなく、東京都から補助を受けながら、猫探しのアルバイトをして生きている。ナカタさんは猫と話せる特殊な能力を持っているのだ。
これら二つの物語が交互に語られ、やがてある必然をもって一つに収斂していく。対位法で書かれたバロック音楽のように、どちらも主旋律を奏でたり、通奏低音となったりしながら、壮大なメロディを響かせていく。
悲劇的な予言を受けたカフカ少年の運命に導かれるように、さまざまな人たちの抱える負の部分が白日の下に晒されていくのだ。
暴力的な悪を刻印のように受けてしまった後に、我々は救済されうるのか? 損なわれてしまった人生は、再び恢復することが出来るのか? そのような根源的な主題に正面から向かいあった本作は、それまでの村上作品から間違いなく量子的飛躍をしている。日本文学の水準を凌駕し、世界水準の高みにまで到達している傑作だ。
カフカ少年のもう一つの人格であるカラスと呼ばれる少年は、ことあるごとにこう言う。「君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年になる」と。それはカフカ少年に対する励ましだけでなく、読む者すべてに向けたメッセージでもあるのだ。我々はタフでなければならない。というよりも、タフでなければ生きていけない。レイモンド・チャンドラー描くフィリップ・マーロウの科白のように、「しっかりしていなかったら、生きていられない。優しくなれなかったら、生きている資格がない」のだ。
デビュー以来、クールでデタッチメントな振る舞いをする登場人物によって読者の支持を得てきた村上春樹が、このように自らのスタイルを転向したきっかけは、やはり阪神大震災と地下鉄サリン事件だった。
バブル経済が崩壊した後の日本を襲ったこれら未曾有の出来事。それからの日本は何処までも続く坂道を下っている。
村上春樹と同じく、1980年代を音楽というジャンルにおいて、職人的なセンスと知性で牽引してきた佐野元春はこうコメントする。
「時は流れ、時代は変わった。つらくて、きびしい世の中になった。その肩に、重い荷物がふえていった。いらだち、弱音をはき、ため息をつく。あの頃の、自分自身を信じる気持ちや、あふれてくるエネルギーは、どこへいってしまったんだろうか」
時代の混迷が我々を暗闇へと引きずりこむ。ジャンクフードが身体を蝕む。リストラが自死へと誘う。そしてテロリズム社会が到来しようとしている。
そういった時代の空気を「炭坑のカナリア」のように感じ取った村上春樹は、地下鉄サリン事件被害者への長期に亘るインタビュー集『アンダーグラウンド』、そして震災後の世界を描いた『神の子どもたちはみな踊る』を発表し、 村上春樹の最新作『海辺のカフカ』は、そのような暴力とそれによって人生を損なわれてしまった者たちについての物語。主人公は15歳の少年、田村カフカ。15歳の誕生日前夜、二度と家に戻らない決意で四国・高松に向かって旅に出る。
彼は幼少期に母親と姉に捨てられてしまったトラウマを心に抱きながら成長してきた。同時に父親から少年は、「父を殺し母や姉と交わる」というオイディプス的な予言を聞かされ、その運命から逃れるためにも家出をする。
生き延びること、それがカフカ少年のたった一つの旅の目的だった。カフカ少年が高松で過ごすのは、雑誌『太陽』で見つけた私立「甲村記念図書館」。図書館の責任者である佐伯さんは、恋人を全共闘の内ゲバ騒動で殺され、その後は抜け殻のようにひっそりと生きてきた女性。同じく図書館で働く大島さんは、血友病で性同一性障害のゲイの女性だ。主人公を取り巻く人たちはみな、暴力的な社会システムから阻害されている。
同時に物語はもう一つの基軸からも描かれる。先の大戦中、学童疎開で山梨にいた時に遭遇した児童集団失神事件の影響で、それまでの記憶を失ってしまった初老の男性、ナカタさんの旅だ。ナカタさんは事件後に読み書き能力を奪われてしまい、まともな人間として扱われないまま生きてきた。木工所で長い間働いていたが、工場が閉鎖になると、その後の職もなく、東京都から補助を受けながら、猫探しのアルバイトをして生きている。ナカタさんは猫と話せる特殊な能力を持っているのだ。
これら二つの物語が交互に語られ、やがてある必然をもって一つに収斂していく。対位法で書かれたバロック音楽のように、どちらも主旋律を奏でたり、通奏低音となったりしながら、壮大なメロディを響かせていく。
悲劇的な予言を受けたカフカ少年の運命に導かれるように、さまざまな人たちの抱える負の部分が白日の下に晒されていくのだ。
暴力的な悪を刻印のように受けてしまった後に、我々は救済されうるのか? 損なわれてしまった人生は、再び恢復することが出来るのか? そのような根源的な主題に正面から向かいあった本作は、それまでの村上作品から間違いなく量子的飛躍をしている。日本文学の水準を凌駕し、世界水準の高みにまで到達している傑作だ。
カフカ少年のもう一つの人格であるカラスと呼ばれる少年は、ことあるごとにこう言う。「君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年になる」と。それはカフカ少年に対する励ましだけでなく、読む者すべてに向けたメッセージでもあるのだ。我々はタフでなければならない。というよりも、タフでなければ生きていけない。レイモンド・チャンドラー描くフィリップ・マーロウの科白のように、「しっかりしていなかったら、生きていられない。優しくなれなかったら、生きている資格がない」のだ。
デビュー以来、クールでデタッチメントな振る舞いをする登場人物によって読者の支持を得てきた村上春樹が、このように自らのスタイルを転向したきっかけは、やはり阪神大震災と地下鉄サリン事件だった。
バブル経済が崩壊した後の日本を襲ったこれら未曾有の出来事。それからの日本は何処までも続く坂道を下っている。
村上春樹と同じく、1980年代を音楽というジャンルにおいて、職人的なセンスと知性で牽引してきた佐野元春はこうコメントする。
時代の混迷が我々を暗闇へと引きずりこむ。ジャンクフードが身体を蝕む。リストラが自死へと誘う。そしてテロリズム社会が到来しようとしている。
そういった時代の空気を「炭坑のカナリア」のように感じ取った村上春樹は、地下鉄サリン事件被害者への長期に亘るインタビュー集『アンダーグラウンド』、そして震災後の世界を描いた『神の子どもたちはみな踊る』を発表し、コミットメントの姿勢を表明し始める。
『海辺のカフカ』は、四国(=死国)の森を舞台に、生と死の根源を彷徨いながら、暴力と喪失の時代を生き延びることについて、世界と世界の交錯するあわいについて、執拗に問い続ける。
カフカ少年は現実世界を抜けて、黄泉の国へと行くが、それは必ず還らなければいけない旅なのだ。なぜならそれは思春期の通過儀礼なのだから。思春期を越えることは、深い谷の上にかかる橋を渡るようなもの。まっすぐ前だけを見ている者には、その谷の深さは知る由もないが、一度でも谷底を覗いてしまった者は、恐怖のあまり目が眩み、奈落に突き落とされ、もうそれまでと同じ風景を見ることは出来なくなってしまう。
だけどその谷底の森を這い上がった時、人は自分がいかに不完全でむなしくあやうい存在であるかを知ることができる。そしてその弱さを知ることこそ、その後の人生において何よりも大切なことなのだ。
『海辺のカフカ』のカバー・ジャケットには、カフカ少年と思われる人物の胸の部分に、猫の置物がコラージュされている。猫、図書館、森、文中に幾度となく登場するキーワード。それらが表象するものの深さをあなたは読みとれるだろうか?
Category : 文学 |
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