光と影のグラフィティー
落書きが多すぎる。近頃、あまりにも多くの落書きを目にするようになった。それは私の生活する東京だけではなく、先日私用で訪ねた京都でも似たような情況だった。かつて落書きは、公衆トイレや工場を取り囲むブロック塀、学校の廊下や歩道橋、そして公園などに限って繰り広げられていたように思うが、最近では民家だろうが商店のシャッターだろうが、所構わずに殴り書きされるようになってしまった。それもきまって、あの独特なヒップホップ調のタイポグラフィーと、ポップでキッチュなアイコンが描かれているのだ。その画一的なスタイルには、怒りを通り越して、うすら寒い気さえしてくる。
もちろん反社会的な行動は、いつの時代も若者にはつきものだ。例えば暴走族全盛時代には、難しい漢字を語呂合わせした落書きが目についたのを覚えている。でも、と私は思う。あの頃はまだ大人の価値観というものが社会を支配していて、反抗するには反抗するだけの理由があったのではないだろうか(まあ、この考え方は、過去をいたずらに賛美しているだけかもしれないが)。気がついてみると、いつのまにかこの国からは、大人の価値観というものは消滅してしまって、歳をとってしまった子どもと、むこうみずな子どもだらけの場所になってしまった気がする。
だとしたらこの頃流行りのあの落書き(当事者たちの言い方を借りれば、グラフィティーだが)は、もはや反抗のシンボルとして描かれているのではなく、自己主張のためのささやかな試みにすぎないのではないだろうか。それによって生じる景観の破壊や、建築物の所持者への被害などはいささかも考慮されず、自分たちの存在を他のグループに示すための一時期的な満足やうさばらしのためならば何をしたっていいじゃないかという態度からは、この時代の病理が無意識のうちに表出している気がしてならない。
話は大きく変わるが、21世紀という目新しい時代がやってきた。どんなに新しい時代も過去と地続きであることは言うまでもないが、21世紀は同時に人類史上類を見ないほどの飛躍的な進化を遂げる時代の予感をおおいに匂わせていることは誰の目にも明らかだろう。その進化とは「IT革命」などという曖昧な表現で言い表されるものではなく、もっと大きな意識の革命であることは間違いない。
しかしながら明確な21世紀の航海図などというものを持ち合わせている者はなく、我々は手探りで量子的飛躍の新世紀を乗り越えていかなければならないのだ。過ぎ去った20世紀の中にすでに幾つかの未来予想図というものが含まれているのだとしたら、そこから何を読み取ることが出来るかという能力こそ21世紀人に問われる資質だろうし、そういうものなしで、ただひたすら最新の技術にばかり酔いしれているのんきな人々は、その場その場の小さな波を乗り越えることは出来ても、精神科学革命の前では、いとも簡単に駆逐される運命にあるのかもしれない。
つまり、前述した落書きの件からも我々は何かを学びとるべきなのだろう。未来の変革のうねりは、そういった瑣末な部分によく現わされているものだからだ。ある哲学者はこう言った。「神は細部に宿る」と。その言葉が真実と仮定して、ここでほんのわずかではあるが、そんな細部を俯瞰してみたい。
折しも20世紀はデザインの時代でもあった。19世紀の終わりから20世紀の初頭にかけてのヨーロッパは、人間中心主義、自己中心主義で押し通してきた西欧キリスト文明の真っ只中にあったが、工業および科学の急速な発展を背景に、そんなキリスト教イデオロギーを拡大再生産させるだけにとどまらず、さらにそれを世界制覇に向けて邁進させてもいたのだ。
しかしその一方では、工業化による環境破壊や公害に直面する人々や、西欧を支配してきたキリスト教的な価値観以外の世界があることに気づく人々が出だしたのだ。主に芸術家や神秘主義者から始まった一連の動きがあった。いわゆる耽美主義、あるいは象徴派と呼ばれるムーブメントが誕生したのだ。
彼らは物質的な外部や伝統的な規範・規律に疑いを抱き、精神の内奥や夢、退廃、それから異教徒的なものに新しい可能性を見いだした。それはボードレールの『悪の華』、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』、アルチュール・ランボーの『地獄の一季』などの文学作品から、オディロン・ルドンに始まる象徴派絵画(それは印象派から袂を分けたものだ)、エミール・ガレらのアール・ヌーヴォー、ウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフト運動、そしてロシア・アヴァンギャルドと呼ばれる、工業製品・デザイン・映画・演劇・音楽・建築などの総合芸術革命にまで展開されていったのだ。
その急流は、ファシズムと結びついてしまったイタリア未来派を生み、ダダイズムという破壊的で破滅的な芸術運動も同時に生みだした。ダダイズムは合理主義を嫌悪する厭世的な気分に満ちていたチューリヒに起こった反芸術運動で、19世紀以来の伝統的思想と技法への否定と反抗であり、すべての秩序や体系を拒否したあとの無から自分たちの新しいものを創造してゆこうとする純粋性に支えられていたのだ。
「アサンブラージュ」、「コラージュ」、「フォトモンタージュ」などの20世紀デザインの礎を次々と発明していった。
チューリヒに生まれ、パリやニューヨークで花開いたダダだが、政治性をはじめから強く打ち出したベルリン・ダダに代表されるドイツのダダは、その卓越しつつ奇抜なデザイン・センスに目をつけたヒトラー率いるナチスの宣伝戦略に巻き込まれ、利用されることになった。しかし「シュルレアリスムはダダの灰から生まれた」とダダの創設者トリスタン・ツァラが語るように、ダダはシュルレアリスムとして名実ともにすばらしい芸術を次世代に爆発させたのだ。
落書きから何を引き継ぐことができるか。どんな夢を見ることができるか。何処へ翔べるか・・・。
Category : グラフィティー |
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