志野と織部
とある晴れた平日の午後、ちょっと時間が出来たので、東京・出光美術館で開催されていた『志野と織部 -風流なるうつわ-』展に行ってみた。
最近の出光美術館は展示センスが良いので、期待していったのだが、本展は期待をはるかに上回るものであった。ただ一つ気になったのは、来館者全員が年寄りだったこと。これにはびっくりした。若者はただの一人もいなかったのだ!
実にもったいないことだと思う。借り物の西洋絵画展には行列を成すというのに、日本の寂びた美であるやきものに若者たちが目を向けないのは、どうしてなのだろうか。
志野と織部は、史上希なほどの好景気に沸いていた桃山時代のわずか20年程の間だけ、美濃(現在の岐阜県)で作られたやきものである。しかしそれは、日本に「うつわ革命」をもたらしたとんでもない傑作揃いなのだ。
それまでの漆器や木器など、木が主体の中世までの食器文化を根底から覆し、陶器や磁器というやきものを主体とした近世の食器文化を誕生させたのが、志野と織部であった。
中国、あるいは朝鮮などといった外国産のやきものに独占されていた高級什器に、まっこうから勝負した初の国産やきものであり、かたち・色彩・文様・肌合いなど、あらゆる点で、それまでのうつわとは異なる魅力的な和の造形を創造していったのだ。
志野焼は、美濃の白い土に、白釉である長石釉をかけて作られた白いやきもの。中国の白磁への憧憬から産み出された志野は、日本のやきものとして、白に下絵付けの技法を用いた初めての技術であった。
国産茶陶では二点しかない国宝の一つが、『志野茶碗 銘卯花墻(三井記念美術館蔵)』であることからもわかるとおり、志野焼には抜きんでたものがあり、その最大の特徴が、白い色彩であると言える。
しかしながら白という色にも様々な階調があり、どの作品に関しても言えることだが、真っ白というものはない。淡いクリーム色から強い鼠色までの間の中で、志野の白は佇んでいるのだ。
想像して欲しい。そこで点てられた濃いお茶のことを。飲み干したうつわの底に微かに残った緑色が、志野茶碗の白とどうあいまって見えるかを。
そして時代を連続させて織部が誕生する。織部焼は桃山時代に登場し一世を風靡した、画期的な様式の施釉陶器。織部という名は茶人の古田織部(ふるたおりべ)に由来し、俗に古田織部が好みで作らせたものが始まりと言われている。
織部焼の特徴は、造形が型破りなところ。古今東西のやきもの器の大部分は、断面が円形になるような形や、角張ったものでも左右対称の整った形をしている。織部焼では、その常識を破り、意図的に歪みやねじれを創り出した。歪みやねじれ以外に、それまでにはなかった形のものもいろいろ作られており、扇形のものなどがよく知られている。
傾き(かぶき)の意匠がふんだんに使われた黒織部、中国・青磁の青に対する強い憧れから産み出された黄瀬戸などが織部の中でも有名であろう。
織部の魅力は、なんといっても艶のある緑の釉薬と卓越したデザインセンスから生まれる多彩な器形だ。器種としては沓茶碗が多く、茶入れ、花鉢、香合、水差しなどが見られる。そしてその存在を支えたのがいわゆるかぶき者や遊女たちであった。
かぶきとは、歌舞伎の語源で、常識外れや異様な風体を意味する。志野や織部の文様の多くは、かつて祝祭や祭礼の場を飾った「風流」のモチーフだったと、本展を企画した荒川正明氏(出光美術館主任学芸員)は指摘している。
風流という言葉は初め、「みやび」の意味で使われていたが、平安後期になると、生活のなかでのハレの場で、会場の調度や参加者の衣裳、乗物などを飾り立てることを指すようになった。
志野と織部で幾度となく使われている橋、車輪、籠、籠目、網干、傘と笠、千鳥、草樹などの文様は、あの世とこの世(彼岸と此岸)を表している。また結界そのものの文様である門木と垣根なども繰り返し使われ、その当時のうつわに何が意図されていたかを考えるのはとても興味深い。
それから例えば「吊し文」と呼ばれる一連の文様がある。従来は「吊し柿」などと言われてきたが、本展では別の見方を提示していた。それは村の境界に注連縄を張り、細縄を垂らすことで、神仏を招き、悪霊をはらう「勧請吊」だったのではないかと。
そう考えると、志野と織部は本当に聖なる境界・結界の文様だらけなのだ。もしかしたら「日本人の精神」と呼ばれるものの多くがこうした中から培われたのではないだろうか? 志野・織部に代表される桃山陶器の出現によって、中世まで主に実用のために作られた国産のやきものが、より洗練されたものに生まれ変わっていったのと同じく、日本人の精神を映し出す道具としての文様が、この頃から生活に浸透していったのではないかと思われる。
確かに中世以前には、身を清めた人々のみに許された風流の飾りが、桃山期を迎えて、かぶき者や遊女たちの破天荒で奇抜な装いへと変貌する。ちなみに彼らの衣装のモチーフは、志野や織部の文様と重なる点が多い。
こうした革新的な美意識もその後の幕藩体制の確立と同時に急速に生命力を失い、それと共に志野や織部の時代も終わりを迎えていった。徳川家康から疎まれた古田織部が自害し、織部焼も市場から抹殺されてしまう。長かった戦乱の末に訪れた束の間の桃山バブルははじけ、江戸時代がやってくるのだ。
Category : 日本美術 |
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